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| 足の怪我3 |
続き・・・・・
母親に送られて始まった初日に、 学校でどうやって過ごしていたのか全く覚えてない。
たぶん帰りも迎えに来てくれていたと思う。
ちょうど寒い時期で、 母が手袋をして自転車をこぐ姿だけが目に焼きついている。
その日、再び病院へ行ったのだろう。記憶ははっきりとない。
今度は、専門の医師がいた。
それでも、昨日と同じような話を聞いたと思う。
私のごっつい足。固定された器具と包帯は変わらなかった。 専門医ならもっとスマートにしてくれるだろうと期待していたのに。 ・・・・・ダメだった。
「いいんじゃない?」この一言で終わり。
骨折するとギブスをつけてもらうでしょう?
あれよりも厚みがあってとにかくボリュームがすごかったから 何とかして欲しかったんだけど、何ともならなかった。。。
そのまま、温シップを貼りかえたのかな・・・。
とにかく、足はそのままで松葉杖だけを貸してもらった。
これで移動は楽になった。
慣れない松葉杖だったが、片足ケンケンよりマシ。
次の日から、私は松葉杖を抱えて母親の自転車の後ろに座った。
私が松葉杖を持っていくと、 何人かの興味を持ったクラスメートが「貸して貸して」と寄ってきた。
勝手に遊んでくださいと思った。
私自身より、松葉杖に興味を持っていかれてホッとしていた。
松葉杖はあれど、片足だから、当時おトイレとかどうしてたんだろう。
昔だから当然和式のトイレだしさ、 個室ですごく無理な格好してたんだろうね(笑)。
体育はずっと見学していた。苦手だったから、嬉しかった。 日当たりのいい場所に座って見学する時間は暖かかった。
私はこんな怪我をしてまでも、学校へ通わなければならない。 私の過ごす世界は家と学校だけだ。休む事も出来ない。
毎朝、母親に送迎される私は寒い朝、 母の背中の温もりを感じながら思っていた。
教室から去っていく母親を見送ると泣けてくる日もあった。
怪我をしていなかった日々よりも、寂しい気持ちが続いた。
定期的に通っていた外科病院でも、私は緘黙児となっていた。
医師に何か聞かれても答えられなかった。 そして、笑う事も出来なかった。
そんな私に医師も何か感じていたのだろう。
足の具合も良くなり、最終のレントゲンを撮って 「もう大丈夫ですよ。歩けるよ」と言われた時、 私はウンともスンとも言わず、 さらに笑いもせずにただ座っているだけだった。
その時、 「嬉しくないの?笑ってもいいんだよ。 最後くらい笑ってくれるかと思ったけど・・・。」と医師は言った。
笑いたくても笑えない、嬉しい気持ちを表に出せない緘黙児なんだよ。
足の怪我をしたことで、医師に突っ込まれた一言は、 胸にズキンときてショックだった。
最後の最後にとどめの一言を食らわされて終わった足の怪我だった。。。
終
【おまけ】
実は、私は学校以外のある場所でも緘黙児になっていた。 それは母親の実家だ。
母親は兄弟が多く、盆暮れに必ず一族が集まる。 私も、小学校の頃は毎回一緒に行っていた。
「行きたくない」と言うと、 「年に数回くらい顔を見せに行きなさい」と叱られていた。
学校に行かなくてもいい日に、緘黙になるのが嫌だった。
私と同じ年頃のいとこ達がたくさん来る。
もちろんしゃべらない、笑わない。 だから、馴染めない。一緒に遊べない。溶け込めない。 1人でポツンと隅っこで座っている子だった。
でも、なぜか不思議と普段の私で居られる時もあった。
普通に話し、普通に遊んで帰って来る時もあったのだ。
楽しい思い出を残して、帰ってきても、今度会うのは半年先とか だから、その時はまた緘黙になってしまったりする。
そんなの自分でも嫌だったなあ。 心の中に違う人間が住んでいるみたいでさ・・・。
今回はこっち、次回はあっちなんて。
そうそう、緘黙児だった時に、 「二重人格だ〜!」って言われた事があったの。
私が学校では一言もしゃべらないのに、 家ではペラペラしゃべるんだってよ〜!なんて噂が飛び交った時ね。
二重人格という言葉を聞いた小学生の私は、 本当にそうなのかって思ってたよ。
それ以来、子供ながらに二重人格なのかも、 なんて思ってたけど、どうも違うらしいという結論になっていた。 自分の性格のせいだと思ってずっと生きてきた。
そして、2005年。 自分は場面緘黙症だったんだと判明。
今はとてもスッキリした気持ちになれました。
テーマ:緘黙児 - ジャンル:育児
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